竹山城

別名-  付近住所 岡山県美作市下町 現在- 
2010/7/26 碑・案内板アリ 日本城郭大系


新免氏  竹山城は、明応2年(1493年)に新免伊賀守貞重により築城され、城の東西に竹が繁茂していたことから竹山城と名づけられました。
 三代伊賀守宗貫の時、関ヶ原の合戦(1600年)で西軍宇喜多秀家に属し、敗戦のため廃城となりました。
 なお、宮本武蔵の祖父平田将監が初代伊賀守貞重の家老として、また父平田無二斎も三代伊賀守宗貫の剣道師範役として任えていたので、宮本武蔵にとってもゆかりのある城です。

 竹山城は太平記にその名が出てくる中世後期の旧吉野郡第一の山城である。城は東を大手とし、西を搦手とした。山の姿は北高南低、巽の方は竹林が繁茂しており竹山の名がついた。東から本丸と西の丸、その間に馬場、西の丸の西方に坊主が丸、本丸の東方に太鼓の丸がある。段郭は東方に二ヶ所、馬場の北方に三段ある。堀切は坊主が丸の西に一ヶ所、井戸の跡は東北西の三ヶ所、門の跡は二ヶ所である。戦国山城の立地条件は@天然の要害、A重要地点(因幡街道を見下ろす)、B攻撃の拠点、竹山城はこの三つの条件をみたした山城である。
 大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名氏の勢力争いが行われた土地である。新免伊賀守貞重は山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応2年(1493年)山王山城から移ってきて、約2万石を支配したという。家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貫の三代百八年間、関ヶ原敗戦まで在城した。武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎はこの城の家老であり、剣道師範役としても仕えていた。
 標高43メートルあるこの城跡は町内随一の展望台であり、眼下に宿場の面影を残す家並と、南に武蔵生誕地宮本を望み、遠く東に美作富士とよばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれる。

       


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